【お題:菜の花が一面に広がる花畑・小さい頃の思い出・病気がちな少女が大人になった・水薬】【時間:1時間8分】
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日に日に容態が悪くなってきていることが、自分でも嫌になるほどわかった。
額にじんわりと滲んだ汗をぬぐいながら、私は窓の外を見た。
窓の外は入道雲がもくもくと沸き立つ快晴である。それがかえって私の心をより一層暗くさせた。どこからか子供たちのはしゃぐ声が聞こえてくる。その声に、私はさらに気分を悪くさせた。この先希望がたっぷりとある子供たちに嫉妬しているのだ。
容態の悪化と比例するように、私の性根も腐っていくのがわかった。こんな自分が本当に嫌になる。こんな病気がちの身体で、しかも、とうに婚期を過ぎた女を、誰も嫁に貰ってくれないだろう。
家の者は、私に優しい。いや、気を使っているのだ。死にゆく私を、可哀想な人間だ、と憐れんでの優しさだろう。
いや、本当の、心からの優しさなのかもしれない。だけど、その優しさを素直に受け取れなくなってしまった。
ああ、私はこの家で、腫れもののように扱われながら、一人で死んでいくのだ。
遠くなっていく子供たちの声に耳を澄ましながら、ふと、彼のことを思い出した。
彼、というのは、10年前に村を出て行った幼馴染の聡一郎のことだ。
聡一郎は医者になると言って、難関の一高に合格したのを期に、この村から出て行った。
目立つような容姿ではないが、さっぱりした整った顔立ちと、少し高い澄んだ声をした、優しい少年だった。聡一郎の親と私の両親もまた幼馴染であったため、家族そろって仲が良かった。おそらく、そういった繋がりがなければ、私たちは知り合うことがなかったと思う。彼の家は、代々、医者の家系。それに大して私の家は、少し繁盛はしている程度のしがない商家なのである。彼とは趣味嗜好も異なる上、異性なので、よっぽどのことがない限り知り合うことはなかったと思う。いや、誰にでも平等に優しく話しかける聡一郎のことだから、きっと、顔見知り程度にはなれていたかもしれない。
私は、聡一郎に恋していた。
実らない恋だと、自分でもわかっている。だけど、日に日に悪くなっていく病の中で、唯一の希望が、再び聡一郎と会い恋仲になるという妄想をすることだった。
再び聡一郎に会うまでは、生きていなければ、と。
私は彼の残した言葉を信じていた。
「医者になったら必ずこの村に戻ってくる。そして紀美子さんの病を直してみせるよ、その時、紀美子さん、貴女に聞いてほしいことがあるんだ」
そう言ってくれたのは、夏になりかけた春の終わり、二人で村はずれの菜の花畑に行ったときのことだった。聡一郎の優しい声と、青い空、そして一面に広がる菜の花の黄色絨毯を、今でも鮮明に覚えている。
聞いてほしいこと。
それは一体なんだろうか。もしかして、愛の告白なのではないか。私はそんな妄想を膨らませながら、この村で彼を待ち続けている。しかし、それは叶わぬ夢だということも、私は気づいていた。
聡一郎の両親から、彼は、帝国軍の軍医になった、と聞いた。こんなへんぴな村にいる私の耳にも「もうすぐ戦争が始まる」という知らせが届くほどだ。
おそらく、この国はもうすぐ戦争を始める。そうなったら、軍医の彼は、戦地に駆り出されることになるだろう。戦が終わるまで、私は生きている自身がない。
実現しない妄想に希望を抱きながら、私は死んでいくのだ。
自然と溜息がこぼれた。
その時、ふと、家の外が騒がしくなった。近所のお留さんの声が聞こえた。
「あら、軍人さんじゃないの?」
続いて幸三おじさんの声も聞こえた。
「いや、あれは……そうちゃんじゃないのかね」
その声に、私は思わずドキリとした。聞き間違えじゃなければ、今、そうちゃん、と聞こえた。幸三おじさんは、聡一郎のことをそうちゃんと呼んでいた。
そんなまさかね。
私は自分を落ち着かせるために、大きく息を吸った。期待して裏切られた時のことを考える。もう傷つきたくないのだ。
私を傷つけないぬるま湯のような優しい妄想の中で私は死んでいくと決めたのだ。
もう一度大きく息を吐いた時、玄関の戸がガラリと開く音が聞こえた。
「あら!聡一郎さんじゃないですか!」
女中の小夜が大きな声を上げた。
「え?」
私の心臓はドクンと鳴った。
家の中も騒がしくなる。私は慌てて、布団から身体を起こした。
「いやぁ、聡一郎くん、久しぶりやねぇ、立派になられて」
母の声が玄関先で聞こえる。
それに続いて、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「お久しぶりです、良子さん」
その声に私の胸がドクドクと暴れだした。この声は、まさか。あの頃より、少し低くなっているように聞こえる。だけど、この、澄んだ優しい声色は、彼だ。私はそう思った。
「軍医になられたって聞いたわよ、すごいわねぇ」
「いや、僕なんかはまだまででして……」
少しためらうようにそう言った彼は、続いてこう言った。
「あの、紀美子さんは」
ドクドクドクドク。
心臓が暴れ馬のように駆ける。顔が熱くなるのを感じた。
「ああ、おるよ、どうぞあがって」
ギシギシと廊下から聞こえる複数の足音が、こちらに向かってくるのがわかる。
私ははっとして、自分の恰好を見た。白地に紺色の朝顔が染められた着物。
こういう日に限って、地味な着物を来ていることを恨んだ。
キョロキョロとあたりを見渡したが、櫛が見つからない。ふと、遠くの机の上に、櫛がおいてあることに気づく。重い身体であれを取りに行くのでは間に合わない。
私は慌てて手櫛でとかした。
足音が襖の前で止まるのがわかった。
私はできるだけ自然を装おうと、窓の外に視線を向けた。
後ろで襖の開く音が聞こえた。
「じゃあごゆっくり」
少し楽しそうな母の声が聞こえたと思うと、襖が再び閉まる音がした。
その時。
「紀美子さん」
と名前を呼ばれた。
私はゆっくりと振り返った。
黒色の軍服に身を包んだ、聡一郎がそこに立っていた。
「そ、聡一郎さん」
「久しぶりだね」
彼は立派な大人の男性になっていた。
どちらかというとやせ型だった彼の身体は、いかにも軍人というようながっしりした体格になっている。
一本の杭が通っているように、背筋をぴっしりと伸ばしている。
修羅場をくぐり抜けてきたのだろう。どこか自信に満ちあふれた雰囲気がある。
だけど私を見つめる優しい瞳は、当時のままだった。
彼は私の布団のそばまでやってくると、畳の上に正座した。
私は彼の顔を見つめたまま、緊張で何を話していいか、わからなくなっていた。それに反して、私の頭の中では、勝手に妄想が進んでいく。彼は、あの日の約束を果たしに来たのだ、と。
そんなはずないだろう。傷つくのは嫌だ。私は必死にその妄想をかき消した。しかし、それは、消しても消しても執拗に湧き上がってくる。
彼は私を見て優しく微笑んだ。
そして、彼はゆっくりと口を開いた。
不安と期待がごちゃ混ぜになった私は、これから彼の口から発せられる言葉を待ったのだった。

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