春が始まる

【お題:『風』『フラスコ』『ゆとり』】
【時間:ー】

◆◆◆

「じゃ、ちょっと学校行ってくる」
玄関でローファーを履いていると、台所からお母さんが顔を出した。
「え?まだ春休みでしょ?それに今日は良子叔母さんたちが来るから家にいてねって言ったじゃない」
「ごめーん、科学部で急遽集合かかっちゃってさ、だから行ってくる、叔母さんたちによろしく、それじゃ」
背後でまだお母さんが何か言っていたけど、聞こえないふりをして、家を出た。

家の前の細い道を抜けて、大通りにやって来ると、視界がピンク色になった。
道に沿って植えられた桜が開花していいた。そばによって見てみると8分咲きだった.
私はふぅと大きく息を吐いた。
親戚の集まりなんて、気を遣うだけでまったく楽しくない。とくに良子叔母さんは苦手だ。お喋りで噂好きな人で、あまり聞かれたくないようなプライベートなことまでズケズケと質問攻めしてくる。こちらが嫌な顔してもお構いなしだ。
だから、科学部の集まりがあると嘘をついて家を出てきた。おそらく、叔母さんは夕方まではいるだろうから、それまで理科室で時間を潰すつもりだ。

校門をくぐると、校庭では運動部が練習をしていた。さりげなくサッカー部の方へ視線を向ける。
どうやら今は休憩時間らしい。ゴール前で部員たちが楽しそうに話している。
……あ、いた、鳴瀬くん。
密かに好意を寄せている、いや、そんなのはおこがましい。アイドルを追いかけるような感覚にちかい。私は鳴瀬君の一方的なファンである。付き合いたいとかそういう感情は抱いていない。ただただ憧れているのだ。ふと女子マネージャー二人が、鳴瀬君の元に駆けていき、何かを話している。それに対して鳴瀬君も爽やかな笑顔で返した。それを見た私は何故かモヤモヤして、彼らから視線をそらした。付き合いたいとかは思っていないのに、いざ、別の異性と仲良くしているのを見ると嫉妬してしまう。本当に私は性格がねじ曲がっている。

下駄箱までやってくると、校舎はしんと静まり返っていた。運動部のかけ声は遠くに聞こえる。
上履きに履き替えた私は、3階の理科室へと向かった。
生徒のいない静かな校舎は、どこか物寂しい雰囲気が漂っていて、心なしか空気も冷たく感じる。階段を登ると、一段登るたびに、きゅっと上履きのゴム底が擦れる音が空しく響いた。
三階までやって来ると、廊下の窓から校庭の様子がよく見えた。どうやらサッカー部は練習を再開したらしい。この距離だと、視力の良い私でも、どれが鳴瀬君か見分けがつかなかった。
ガラッ
理科室のドアを開ける。
さすがに他の部員はいなかった。今日は貸し切りだ。机の上に鞄を置いてから、隣の理科準備室へ繋がるドアをノックした。反応がない。坂本先生も今日は来ていないらしい。
鞄を置いた机まで戻ると、椅子を引いて腰掛けた。何もやる気になれず、肘をついてボンヤリと窓を眺めた。二日前に科学部の実験で使った際に洗って干したフラスコが並んでいる。
「……」
静かだ。
聞こえてくるのは、窓際に置かれた水槽のコポコポという音だけだ。

今年私は高校3年になる。
受験。
考えるだけで憂鬱になる。ボンヤリと大学に行きたいとは思っているけど、具体的にどこの大学に行って何がしたいのか、わかっていない。科学部の同級生は、皆、それぞれ志望校が決まっているらしい。決まっていないのは私だけだ。
「わたし、一体何がしたいんだろうね」
ポツリと独り言を呟く。当然返事は帰って来ない。
「……はぁ」
ため息をついてから立ち上がると、窓を大きく開いた。
ふわり。
開け放たれた窓から、風が吹き込んでくる。その風に乗って桜の花びらが舞いながらこちらへやって来た。
……これから私は何者になっていくのだろう。
春風に吹かれながら、その花びらを視線で追った。
まもなく高校最後の春が始まろうとしていた。

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